停滞する学校改革進言
トップの質が組織を変える
6カ月間の兵役を終えた私は1970年、ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)に入学した。
この学校に特別な愛着はなかった。企業経営者を養成する経営大学院は人気もなかった。ベトナム戦争は激しさを増し、企業には疑念や敵意が向けられていた。戦争を支え、兵器を生むと考えられていたからだ。人を焼き殺すナパーム弾はその象徴だった。
優秀な学生はロースクール(法科大学院)を目指した。私も狙ったが、希望校は不合格だった。兵役前に働いた投資銀行ドナルドソン・ラフキン・アンド・ジェンレット(DLJ)で、金融知識がなく苦労した。HBSで身につけようと、私は入学を決めた。
だが退屈だった。優秀な学生がいない。アビントン高校での私の成績は上位グループの中の下位で、エール大学では落第しかけた。HBSではそんな自分が一番優秀だと思うようになった。
授業も単純で、どの科目も結論は同じだった。企業のあらゆる機能は互いに関連しており、全体を調和させなければうまくいかない。
おっしゃる通りだ。でもそんな退屈な話を、頭が切れるとは思えない学生たちに囲まれて延々と聞かなければならないのか。私は入学して数カ月もたたないうちに、辞めたいと思い始めた。
12月、悩んだ末にHBSのOBでDLJの創業者の一人、ディック・ジェンレットに手紙を書いた。「毎日寒く、じめじめしています。授業は退屈で、学生も賢くありません。DLJに戻れませんか」
ディックから6ページもの返事が届いた。彼の人生の話がつづられていた。
「私は55年にHBSに入り、君と同じ理由で辞めたくなった。でも残り、それが人生で最良の決断だった。私が心から愛し、得意としている仕事につながったのだ」
最後に彼は念を押した。「どんなことがあっても辞めてはならない」。私は手紙を何度も読み返した。辞めたい気持ちは消えなかったが、「ディックは私より賢く、経験もある」と自分に言い聞かせて学校に残った。
やがて私は、成績上位の学生が入会するセンチュリー・クラブの会長になった。キャリアを歩み始めたばかりで成功を収めている若手の話を聞く企画を始めた。ベトナム戦争に従軍し、後に民主党の大統領候補となるジョン・ケリーや、後にロンドン交響楽団を指揮するマイケル・ティルソン・トーマスらだ。
人とのつながりは人生を変える。それには相手に何でも尋ねられる心の開放性が欠かせない。ディックがいなければ私はどうなっていたか。手紙の時代は終わったかもしれないが、私は今でも自分へのメールはすべて読む。
私は停滞するHBSの改革を決心した。学ばぬ学生、教えぬ教授、時代遅れのカリキュラム、動きが鈍く非効率な運営。これらを改革する案をまとめ、ローレンス・フォーレーカー学部長を訪ねた。
彼は聞く耳を持っていなかった。面会を取り付けるだけで何カ月もかかった。彼は改革案を 「君は昔から変わり者だったのか?」 と一蹴した。私は言い返した。「権限を持つ人とは話し慣れています。組織に役立つことを提案すれば歓迎してくれるものです」
やっと腑に落ちた。HBSがつまらない理由はトップにあったのだ。私は重要な教訓を得た。「組織の質は、その組織を率いる人間の質を超えない」 と。
初出:日本経済新聞(2026年10月)