リレーを通じて培った絆
黒人社会へ導いてくれた恩人
アビントン高校の陸上部は強豪だった。私はリレーで負けたことがまずない。私は第1走者で、ボビー・ブライアントがアンカーだ。いつも勝利へ導いてくれた。
ボビーと私は正反対だった。私は努力型で、練習の終わりに体調を崩すほど自分を追い込んだ。ボビーは練習嫌いだが天才で、ペンシルベニア州の王者にもなった。学業もだ。私は優等生の生徒会長、ボビーは苦労していた。
ボビーは心が広く、冗談を飛ばして周囲を笑わせた。私たちは意気投合した。
リレーの連勝が途絶えかけたことがある。ニューヨークの室内競技会で、私たちは合計880ヤード(約800メートル)を走った。コーナーを回る途中、私は右脚の筋肉が切れるのを感じた。
私は最下位でバトンを渡した。座り込み、うなだれていた。だがやがて、観客の歓声に気づいた。第2、第3走者が差を詰めている。
それでもボビーがバトンを受けた時、先頭との差は12ヤードもあった。追いつけない。
だが、ボビーは驚異の走りで先頭の選手を抜き去り、勝ちをもぎとった。歩いてきた彼は、私の肩を抱き言った。「おまえのために走ったんだぞ」。ボビーと私は、互いのためなら何でもできる戦友のような関係になった。
私はボビーに一生の恩がある。黒人の彼は、私を黒人社会に導いてくれた。
私は週末をボビーや彼の友人、家族と過ごした。気がつけば、白人より黒人の友人の方が多くなっていた。生徒会長に選ばれたとき、多様な背景を持つ生徒から支持を得たことを誇りに思った。
1960年代の米国では不平等が見過ごされていた。ボビーたちを通じ、黒人が直面する障害をこの目で見た。卓越したアスリートでもない限り、黒人は名門大学にまず進学できない。壁を突破するには助け、励まし、扉を開いてくれる人が必要だった。
その後、ボビーは狙撃兵としてベトナム戦争に従軍した。帰国後、彼は淡々と語った。「夜中にヘリで降ろされるんだ。木の上に登って夜明けを待ち、人を撃つ」
警察署が狙撃手として彼を採用したがった。私は受けるよう勧めた。今の生活の糧も老後の安定も得られる、撃つ相手は悪人だ、と説得した。だがボビーは応じなかった。「俺は人殺しじゃない」と。
私は別の仕事を紹介した。うまくいかなければまた別の仕事を探した。奥さんが欲しがったプール付きの家を買うときも、地域のフットボールリーグを立ち上げるときも資金を援助した。
ボビーは2015年、68歳で逝った。アビントン高が予定していた同窓会の参加者名簿に名前がない。留守電に伝言を残すと電話がきて、体調が悪いという。「気の毒だな」。私はそう言い、とりとめもない話をした。
2日後、彼の息子から訃報がきた。電話のことを話すと、「ありえません」と驚愕(きょうがく)する。ボビーは末期がんで、数週間も意識がなかったという。だが私には分かる。ボビーは私に別れを告げるため、最後の力を振り絞ったのだ。
葬儀に私はただ一人の白人として参列し、弔辞を述べた。素晴らしい見送りだった。
人は運命を持って生まれてくる。欠けているものや、そうあってほしいと願う姿で評価してはならない。その人が持つ資質や周囲の人生にもたらした光を称(たた)えるべきだ。私は10代にして、ボビーからそれを学んだ。
初出:日本経済新聞(2026年10月)