14. ヤスオ

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1985年に創業したものの、ブラックストーンは鳴かず飛ばずだった。運命を変えたのはジャパンマネーだ。飛躍の機会をくれたのは、日興証券の国際部門を率いるヤスオ(神崎泰雄)だった。

日本のバブルが頂点に達する前の 87年、日本の金融機関は米国進出を進めていた。その1社が日興だ。ニューヨークの社員に米国で何をしたいのか聞くと、
「M&A(合併・買収)」の助言だという。

私は首を横に振った。「あなたは英語がうまくありません」。M&Aは言葉のニュアンスがすべてだ。不機嫌な表情を浮かべる彼に私は提携を提案した。日興が日本企業を連れてくる。うちは米国でのM&Aを担当する。成立したら手数料を分け合う。

日興から日本で会いたいと連絡が来た。東京で私と会長のピート・ピーターソンを迎えたのがヤスオだ。小柄だが率直で力がみなぎっていた。

彼は私の構想に「一緒にやろう」と関心を示した。そこで私は本来の目的を明かした。「買収ファンドに出資してください」。ヤスオは乗り気になったが条件をつけた。「他社に言うなよ」

だが翌日、災難が起きた。取り消したはずの野村証券との約束が残っていた。私が時差ぼけで眠っているうちに、クルマは野村の前に着いていた。

私は自動車電話でヤスオに謝罪し、どうすべきか尋ねた。歯の間から息を吸い込む「シーッ」という音が聞こえる。厄介なことが起きたとき、日本の男が発する音だ。

「野村はダメだ」と彼は言う。「いくら欲しい?」5000万ドルを主張するピートを制し、私は「1億ドルです」と答えた。「決まりだ」とヤスオは即決した。

日興は我々を1週間の資金集めに連れ出した。
 
米国での空振りが悪夢だったかのように、すべての企業が出資してくれる。三菱グループと密接だった日興が、グループ企業の内諾を取り付けていた。

日本で集まった資金は3億2500万ドルに達した。ファンドへの投資実績がない国からとしては驚異的だ。最終的なファンド総額の 40% を占めた。私がよく「日本なしにブラックストーンなし」と言うのは、この歴史があるからだ。

ヤスオとの友情は続いた。午前1時まで働き、翌朝8時には机に向かう日本人の猛烈な働きぶりには驚嘆した。一度の失敗で地方に飛ばされる企業文化を聞いたとき、
「それで新しいことに挑戦できるのか」と不思議に感じた。

ヤスオは当時の日本人としては珍しく家族との交流を好んだ。彼と奥さんが料亭に招いてくれたこともある。幼かった息子のテディに日本酒を味見させていた。日興を去る際、私はゴルフ好きの彼に最高級のクラブ一式を贈った。

ヤスオは2019年3月、87歳で逝った。電話をかけてきたと聞いた私は、毎日彼の携帯にかけ続けたが応答がない。胸騒ぎがした私は、「亡くなったに違いない」と周囲に言ってしまった。

訃報は翌週届いた。
ヤスオの電話は、2月に日経が掲載した私のインタビュー記事への感想を伝えるためだった。

米中の通商交渉は重大な局面に入っており、私はトランプ大統領と中国の習近平国家主席の間を取り持っていた。「習主席と側近たちは、今までと違う行動を取らなければならないと分かっている」
私はこう解説していた。

ヤスオは私たちの歴史を変えた。日本のバブルが崩壊していく中、うちへの投資は日興に大きな利益をもたらした。無二の親友だった。

初出:日本経済新聞(2026年10月)