柔と剛 両親から受け継ぐ
引っ越して見た別の米国
シュワルツマン家のルーツはオーストリアからのユダヤ系移民にさかのぼる。
曽祖父のウィリアムは1883年にフィラデルフィアに渡り、幅広い商品を扱う雑貨店を開いた。彼の死後、3人の子どもは遺産を分けて自分の店を開いた。そのうちの一人が祖父のジェイコブだ。店はユダヤ人街のオックスフォード・サークル付近にあった。
私は1947年に生まれ、子ども時分から店を手伝った。祖父は祖母レベッカとともに、戦争で孤児となったイスラエルのユダヤ人を支援していた。倉庫のひとつを玩具や車椅子でいっぱいにし、数カ月おきに送った。イスラエルは、第2次世界大戦後に建国したばかりで貧しかった。
戦後の米国は、数少ない豊かな国だった。祖父にとって人助けは慈善行為を超えた義務だ。彼の姿を見て育った私にも同じ信念が根づいた。
完璧主義者でもあった。すべて自分の指揮と統制のもとに置きたがる。店全体を見渡せるレジの前に船長のように陣取り、売り場の私たちが品物を美しく包装して客に渡しているか目を光らせた。
後で述べるが、ブラックストーンにもまた、祖父が私たちに求めたのと同じような完璧主義の社風がある。
店を引き継いだのが父のジョセフだ。昔の日本人のように週7日働いた。聡明(そうめい)だったがつつましかった。私が勧めても、「今で十分幸せだ」と店舗網の拡大を拒んだ。
父の顔は著名投資家のウォーレン・バフェットそっくりだった。私はウォーレンにルーツを確認したこともある。遠い親戚かもしれない。
父が母アーリーンと恋に落ちたのは、ペンシルベニア州のサマーキャンプだ。母は自分の父が早世したせいか、意志も競争心も強かった。ランニングマシンの上を走らせるように、前のめりの生き方を私や双子の弟たちに求めた。褒めてくれない母だった。
柔と剛。私は親から対照的な遺伝子を受け継いだ。
最初の転機は、中学校時の引っ越しだ。オックスフォード・サークルは荒れていた。悪友のチャック・ワイナーの父はマフィアに殺された。チャックは自宅で私に、100ドル札の束がぎっしり詰まる工具箱を見せてくれた。アルバイトの時給が10セントの時代だ。
母と服を買いに行ったとき、私は金属の鋲(びょう)がびっしり付いた黒いライダージャケットをせがんだ。「クールな連中はみんな着ている」と。愕然(がくぜん)とした母は、「店から遠くなる」と渋る父を押し切って引っ越しを決めた。
行き先は州内のアビントンだ。住民の99%がキリスト教徒で、中流上位層が住んでいた。「まったく別の米国だ!」私は驚いた。
私は今も、世論調査を信用しない。その集団がどんな人々で構成されているのかをまず見る。二つの異なる世界を見せてくれた母のおかげだ。
92歳まで生きた母と違い、父は2002年に82歳で逝った。引退していたが、あと10年生きて、息子が成功する姿を見てもらいたかった。
大学進学で家を離れるとき、父は言った。「もう助けられないけど愛している。いつでも帰っておいで」。文字通り優しい(ジェントル)人(マン)だった。父が逝った日は人生で最も悲しい日だ。
祖父の店を手伝っていた頃の話に戻ろう。私は日本製のトランジスタラジオを初めて見た。小ささと性能の良さに驚いた。戦後、日本は米国人の意識から消えていた。私は日本の復興を知った。
初出:日本経済新聞(2026年10月)