「3本柱」を事業の軸に
空振り続きでいきなり窮地
私は1985年、ピート・ピーターソンとブラックストーンを共同創業した。出会いは彼がリーマン・ブラザーズの最高経営責任者(CEO)に迎えられた73年で、私は入社2年目だった。
ピートは金融をほとんど知らず、社内で対立していたどの派閥にも脅威にならなかった。各陣営は、彼ならコントロールできると思った。
着任後ピートは全社員にメモを送った。「業績が芳しくない。どんな事業戦略を採るべきか」。返信したのは私だけだった。ピートは私を呼んで言った。「一緒に働こう」
私は生意気にも申し出を断った。「あなたは金融を分かっておらず、学ぶために大量の質問をしていると聞きます。私もほとんど知らないので手助けができません」
でもこう締めくくった。「自信がついたらお伝えします」。2年後に私は「準備ができました」と電話し、私たちはチームとして働き始めた。
85年も同じだ。開業前の数週間、ピートと私は毎朝ニューヨークのメイフェア・ホテルの中庭にあるレストランで、どんな事業にするべきか議論した。繰り返し自問したのは「誰もしたことがなく、我々にできることは何か」だ。
3本柱で始めることにした。第1の柱は「ブティック」と呼ぶ小型の投資銀行としてM&A(合併・買収)の助言をする。顧客を絞ることで顧客同士の利益相反を避け、企業は安心して機密性の高い案件を任せることができる。当時ほとんどなかった形態だ。
第2の柱は買収ファンドだ。私はリーマン時代にその案件を手掛け、勝手をよく知っていた。今日では世界に何千もの会社が存在するが、当時は10社ほどしかなかった。
第3の柱は新事業だ。金融の潮流変化を読み取り、動くべきタイミングを待つ。
新事業には2つ条件を設けた。まず、事業を率いる10点満点中10点の人物を見つけること。次に、目に見えなくても既存事業を豊かにする「知的資本」を生むことだ。
典型例が、88年にラリー・フィンクを迎えて始めた流動資産の運用だった。この話は後に詳しく触れる。事業はやがて私たちのもとを離れ、世界最大の資産運用会社、ブラックロックへと成長した。
ラリーは10点満点どころか11点の逸材だった。流動資産への投資はマクロ経済の影響を受けやすい。債券を運用するには中央銀行、金利、インフレ、信用環境を読み解く必要がある。その知識は他の既存事業を強化するだろう。
世界で、この3本柱を持つ会社は他になかった。
社名は私たちの姓を組み合わせた。ドイツ系ユダヤ人である私の姓は「ブラック(黒)」を、ピートの父親のギリシャ名は「ストーン(石)」をそれぞれ含む。2人は20万ドルずつ出資し、10月1日に40万ドルの資本で創業した。
当初は空振り続きだった。創業を知らせる手紙を500通以上送っても仕事は来ない。ウォール・ストリート・ジャーナルが掲載する予定だった創業のニュースも、リーマンの妨害でボツになった。
重要なことを見落としていた。うちを選ぶ顧客は、長年依存してきた大手金融機関に言い訳をしなければならない。自分たちが何をしているのか分かっているつもりだったが理解が足らなかった。起業家がよく陥る落とし穴だ。
買収ファンドは世界最大級の10億ドルを集めると公言していた。だが米国で集まったのはわずか1億7500万ドル。窮地を救ったのが日本だ。
初出:日本経済新聞(2026年10月)