国を動かす鉄道王の息子
「まずは稼げ」心に残る助言
1969年にエール大学を卒業する前、私はスカル・アンド・ボーンズの大先輩、アベレル・ハリマンに手紙で面会を求めた。将来への助言をもらいたかったのだ。
彼は国家の指導者を意味する「ステーツマン」を体現していた。80歳を前に実業界、外交界、政界など、どこでも大きな存在感があった。
彼の父、エドワード・ヘンリー・ハリマンは伝説の人だ。ユニオン・パシフィック鉄道などの巨大鉄道網を支配して莫大な富を築き、「鉄道王」と呼ばれた。日本とも縁がある。日露戦争後、桂太郎首相と満州での共同鉄道事業の可能性を探った「桂・ハリマン協定」の当事者だ。
マンハッタンにある彼の邸宅では、白い上着と蝶ネクタイ姿の執事が恭しくドアを開けてくれた。居間に通され、耳が遠い彼のために隣の席に座らされた。
「若いの、今日はどうした?」。昼食を挟んだその後の2時間半、彼から聞いた人生は驚きの連続だった。
1917年のロシア革命で権力を握ったボリシェビキは、外貨の獲得を目指してハリマン家やメロン家ら、米国の富豪たちを誘っていた。彼は米国側の若い使節としてロシアに赴き、トロツキーら政権中枢と交渉した。
そして重大な結論に達した。ソビエト政権は、米国人に工場などを建設させても支配させない。「現地の全資産をすぐ売却して撤退すべきだ」と富豪たちに進言した。
警告は退けられた。彼はまだ若造で、検討する価値はないと。最終的に資産が没収され、彼らはすべてを失ったとハリマンは振り返った。
39年に第2次大戦が勃発すると、より大きな舞台に進んだ。43年、親交のあったルーズベルト大統領の依頼で駐ソ大使となり、連合国の首脳間を飛び回った。ソ連のスターリン、英国のチャーチル両首相らと、対ドイツ戦を支える物資の供給を調整した。
私と会った時、彼はベトナム戦争の終結を目指す北ベトナムとのパリ和平交渉で、米国の首席代表だった。後に国務長官となるサイラス・バンスが交渉現場から電話してきた。ハリマンは「そこは譲ろう」などと指示している。
私はまだ21歳だった。「俺は世界一ラッキーな人間だ。この瞬間に立ち会い、歴史が作られる現場を目の当たりにしている」。それだけではなかった。私の心に残り続ける助言を彼は授けた。
政治への興味を明かすと、彼は「独立できるほどカネがあるのか?」と尋ねた。「いえ、ありません」と私。
彼は語り出した。「まず実業の世界で資産を築け。そうして初めて誰にも依存せず、誰にも借りを作らない真に独立した人間になれる」と。
そしてこう言った。「私の父親がユニオン・パシフィック鉄道の会長であり、世界的な富豪のE・H・ハリマンでなかったなら、君は今私と向き合っていないだろう」
邸宅を後にすると、空が輝いていた。彼の世界が自分の育った世界からいかに遠いかを思った。彼の魅力に、威厳に、圧倒的なスケールにすっかり心を奪われた。
両親と話したくなり、公衆電話へ飛びついてまくしたてた。「とんでもなく素晴らしい体験をした」。実家は郊外で、芝生の庭があり、自家用車が2台ある。普通の米国人の暮らしぶりだった。
それだけに、全く別の世界へと引き上げられたような気持ちになっていた。それが、私の「ハリマン体験」だ。
初出:日本経済新聞(2026年10月)